2016年4月7日木曜日

春のつれづれ

帰省した幾日かのうちにあれよあれよと春がやってきた
花見などには出かけたりせぬまま
郡山に戻ればこちらもまたすっかり桜が咲き出していて、眺め一変

ちょっと焦る


それにしても曇天

今年の春は気ぜわしさだけで
あまりこころ浮き立たないのはどうしたことか

と問いかけてみるも、ほんとうは理由などわかっている

いまひとつな父の容体に加えて


雪不足に
おしゃべり不足


海 不足でもあったのだなぁ。。。
カモメの声までもが恋しくて深呼吸 


海を吸う

青空を吸う

肉と野菜は足りています(。-_-)  お魚は連日食べさせてもらいました
しかし、あーーー 山菜は不足 

春なのに
山にも行っていない


無いものを数えるのはいい趣味ではないけれど
満ち足りている時には思い至らないこともある


避難のためにふるさとを離れた人
帰るふるさとを失った人などは、どんな思いでそれぞれの地にいるだろう

自分とこの桜が一番うつくしい
と、ふるさと自慢をするのを微笑ましさだけで見ることができない


そこにきてハイ
相方のお休みがピンポイントで雨ときた(-"-)



それでもくじけず出かけます、福島市
凍えそうに寒くて、道路は水しぶきいっぱい、風情どころでなかったけれども
それでもまあよし

こころの中の青空フィルター通しちゃうもんね
ついでに映画観て、お気に入りのコーヒー屋さんとパン屋さんにも
行っちゃうもんね


ふたりだったらどこだって楽しめる


だけどもね。。。


コレだけはいただけない
更に上昇する前に退散


土あるところ、落ち葉あるところは、やはり線量が高い
ここは大きな祭りごともする(子どもたちも来るであろう)大事なお山

場所にもよるし
福島全体がキケンだとかそんなことを言いたいわけでは決してない
 (福島県内には新潟市の前の住まいより低いところもいっぱいある

この数値をどう捉えるか、についての見解は個々人で異なると思う 
原発事故から5年経って、随分下がったのだと言う人もいると思う

「数字」への慣れというのは私にもある
自分のいる場所への肯定反応(?安全だと思いたいという心理?)なのかなと思う


ただ、これは私にとっては、この程度はやむをえない、という数値ではない
こういう数値を日常のレジャーの中で見ることに疑問を感じていたい


それでも生活はする
元気に暮らすすべはある
信頼できる食品は手に入るし、なるべくこの地を楽しもうと思っている
(そういう話ももっと書いたほうがよいね~

だけどもよ

日々聞こえてくる避難指示解除のことを思う


アスファルトの道路の縁だけ除染して
敷地だけ除染して
ずっと屋外にいるわけでもあるまいし
屋内はさらに低いからいいだろうとか

暮らしって
そういうことじゃないでしょう
ってことを、こういう時に思い出す

とりわけ豊かな野山の自然とともに生きてきた人たちは
庭だけじゃなくて、茂みにも林にも入るでしょう
そこのものをありがたい恵みとして食べてきたでしょう
座ったり、土や草にまみれたり
子どもたちとも連れだって遊び、分かち合って人生を慈しむでしょう

何より贅沢で幸福で当たり前なそれらの営みが、奪われたのだということを
政治家や電力会社はどう思っているのか

取り返しのつかないことをした、と思ってくれているならまだいいとする

けれどどう思って現段階で避難指示解除をしたり再稼働を進めたり
その判断基準を決めているのか

東電は巨額を投じて安全アピールのCMを流している場合なのか
(是が非でも再稼働させたい刈羽原発のある新潟県内にだけ

住民の反発を受けて森林も除染すると言い出した
だけど本当に大地の除染などできると思っているんだろうか
作業員に延々と被ばくをさせながら
汚染土の行き場もないのに

混ぜて薄めて広げるの?


隣国の核実験の影響にシビアになる以上に
もっと自国の恥ずべき垂れ流しに向き合ってくれないか


この地で美しい自然や豊かなる営みに出会えば出会うほど
私は憤ってしまって思いのやり場に困るのです



実家近くで久々に見た気がしたつくしんぼ



そうそう、春の景色ってこうだった



近くの神社の桜が咲きはじめたころ
庭で満開だった梅が散りだして


郡山に戻る日に花桃が一輪咲きました

福島県の三春町は春に梅・桃・桜が一度に咲くから三春
というのだとか

桜前線があちらとほぼ一緒の我がふるさとも
ほぼ三春


春爛漫

こころおきなく土に親しみながら
日ごとに芽吹き花開いていくのを愛でさせてもらいました